
今週、大学生の就職内定率が73.1%という報道が俺の関心を少なからず惹いた。俺も現在、失業中である。だからといって、俺は今年の新卒の若者たちに共感することは、さほどないが・・・。ただ5年前の、「戦後最長の好景気」や「いざなぎ景気越え」などと過剰に喧伝され、もてはやされていた頃とは大違いである。あの頃は、アメリカや中国への輸出増に牽引されてGDPがやや上昇していたほか、団塊世代どもの一斉退職も重なり、新卒の若者は売り手市場であったとさえいわれた。リーマンショック後、急激に世界経済は低迷し、内定取り消しという事態まで起こった。
そう思うと、感慨深くなる。繰り返すが、俺は新卒の若者に同情する気はさほどない。なぜなら、彼らのようなポスト・ロストジェネレーション世代の多くは、リーマンショックが起こる以前、俺のようなロストジェネレーション世代(特にそのなかにいる非正社員の若者)を「自己責任だ」や「努力せず怠けている連中」などと罵って蔑んでいたからだ。彼らもまた、俺たちが散々味わった冷や飯を食わされる苦しみを思い知るだろう。
やや唐突だが、話題をコミュニケーション能力というくだらないものに移そうと思う。新卒採用では、必ずといっていいほど採用の条件にコミュニケーション能力という奇怪なものが、嫌気がするほど出てくる。はたまた、そういったものを内包した概念として、「人間力」という奇妙なものまである。しかし、これらの概念には正確な定義がないどころか至極曖昧で、いかようにも判断できるものである。辞書を引いても「コミュニケーション能力」や「人間力」などはどこにも載ってはいない。ましてやそれらの正確な定義や、どのようなコミュニケーションの仕方が良いのか、また悪いのかなどということは一切書かれていない。
しょせんは、コミュニケーション能力というのは、共同体によって異なるし、それに対する価値判断も共同体における文化や慣習によって左右されるにちがいない。
俺は、年末年始、ソウルへ観光旅行に出かけた。東大門や南大門では、軒を連ねる店々の店員は俺を人目見るだけで日本人だとわかるらしく、さかんに日本語で声を掛けたり、なかには俺のもとまで近づいて来て買物を勧めたりする。彼らの積極的な接客に内気な俺は、思わずたじろぎ、身を引いてしまう。しかし、俺はそんなのは、しょせん、商売だからそうしているのだろうとタカをくくっていた。
俺はあるとき、ソウル市内をぶらぶらと宛てもなく歩いていたところ、1人の韓国人青年に英語で声をかけられた。俺は一瞬、警戒したが、青年は親しそうな雰囲気で写真をとってくれと英語で俺に頼んだ。青年はマウンテンバイクに乗って、リュックサックを背負っていた。一見すると、地方から来たみたいな感じだ。俺はほっと安心して、片言の下手な英語で少し会話しながらデジカメのシャッターを押して、何枚か写真を撮った。そのあと、俺は青年と握手を交わして、互いにその場を立ち去った。
俺は、何気なく青年の写真を撮ったが、はたして、日本人の場合、彼のように何の尻込みもせずに外国人に写真を撮ってくれと頼めるだろうか。おそらく、多くの日本人はわざわざ外国人なんかに写真を撮ってくれなどと頼まないだろう。青年は、外国人である俺に、何もたじろぐことがなく自ら進んで近づいて頼んできた。これが韓国人のコミュニケーションの仕方の一つであるかもしれない。
韓国人のコミュニケーションの仕方でよく聞かされるのは、物言いは、ストレートだということだ。現地のガイドの話によれば、韓国人の多くは、今、思ったことをすぐにいわなければ後悔すると思って、その場、その時に思ったことを正直に話すのだという。これは、韓国人にとっては当たり前のことなのであろう。(日本人の視点からみて)このことが良いか悪いかは別として。日本人の間では、おそらくストレートに思ったことをいう者などは、「気配りがない奴だ」や「空気の読めない奴」といった非難を被るのではないだろうか。(我々、日本人もこうしたことを当然のようにおこなっているのではないか)
こうしたことを考えると、何がコミュニケーション能力か、どのコミュニケーションの仕方が正しいのかなどの価値判断は、一切ないのである。国や共同体によって、それらは大きく異なるのである。新卒採用の基準にコミュニケーション能力という項目を設けるのは、あまりにも馬鹿馬鹿しいことではないか。また、定義も価値判断も確かでないコミュニケーション能力を学生に要求して悩ませるのは、あまりにも酷であろう。面接官は、サディストではないかと思えてしまう。
もっと始末が悪いのは、グローバル規模に経営を展開すると称す企業が、新卒の学生にコミュニケーション能力を求めていることであろう。そのようなことを学生たちに称して、コミュニケーション能力という不可解なものを求めるのであれば、企業はどの地域または、どの共同体に通用するコミュニケーションを要求しているのかを、はっきりと提示するべきだ。また、どういうコミュニケーションの仕方が正しいのかを明示するべきだろう。もし、グローバル規模の経営を展開すると自負している企業のなかで、新卒の学生たちに、日本人間で共有されるコミュニケーションを前提に、コミュニケーション能力という不可思議なものを要求しているのであれば、態度を改めるか、コミュニケーション能力という概念を明確に定義して、学生たちに示すべきだ。
俺は、以上のようにコミュニケーション能力というわけのわからない怪物を自分なりに考えて、綴ってみた。何度も繰り返していうように、コミュニケーション能力という意味不明な言葉には、正確な定義などない。ましてや、それらは、どういうコミュニケーションが正しいのか、間違っているかという価値判断さえも明らかになっていない。至極曖昧なものである。
しょせん、面接官がどういうコミュニケーションが正しいのか、間違っているかなどの判断は、偏見や「好き」か「嫌い」という単純な感覚に拠るものとなる。面接官の恣意性によって、学生のコミュニケーション能力というのは、評価されてしまうのである。コミュニケーション能力の評価に関して面接を考えると、企業から内定が得られるかどうかは運しだいといえなくもないのではないか。そうであれば、非常に馬鹿げた話だ。企業がさかんに学生に要求するコミュニケーション能力とやらが、この程度のくだらないものであれば、学生たちはコミュニケーション能力がどう評価されるのかについて、とらわれたり、悩んだりする必要はないだろう。いっそうのこと、開き直ってみたほうが良いのではないかとさえ思う。以上は俺がコミュニケーション能力について、自分自身の経験と偏見を拠り所にして勝手にだらだらと述べたが、まず誰一人として、このコミュニケーション能力について正しい定義や、それについての正確な価値判断を提示できるものはいないだろう。